幼少の頃からサルサを歌い始め、プロのミュージシャン達との交流を始めるきっかけとなった早熟の才能を発揮する。7歳で地方の舞台で歌い始め、1971年、彼が13歳の時にCharlie Lopez と la Orquesta Nuevaの師事のもと、最初のレコードを録音。1974年に、Ruizはプエルトリコに母親と移住し、La DictadoraとLa Moderna Vibracionのグループと共に歌う事になるMayaguezの地で居を構える。その場所はプエルトリコ国内の場所で、そこでRuizは、1977年にたった19歳でサブメインボーカルになったla Orquesta La Solucionを作り、 音楽のキャリアを強めていく。1979年に発表された「Frankie Ruiz」と「La Solucion」の2枚 のCDは、1996年に「Salsa Buena」のタイトルで復刻版が発売。さらにOrquesta Solucionは2つのCD 「La Vecina」と「sobre todo La Rueda」を出し成功を再び収めた。この二枚は連続ヒットになった。
Tommy Olivenciaのバンドと共に、まるで権威のあるオーケストラの歌手のようにふるまいながら、「Primer Concierto de la Familia TH」(1983年)内の「Viejita」という曲を録音。「Cereblando Otro Aniversario」(1984年)では「Lo dudo」という衝撃的作を発表し、そのアルバムは今日まで最も官能的なサルサのCDとして考えられている。1985年にソロに戻り、「Solista Pero No Solo」という最初のソロ作品を録音。このアルバムは他の様々な曲とともにプエルトリコとラテンアメリカ最優秀曲になり、1986年のBillboardのラテンミュージックアワードの最優秀アルバム賞を受賞。80年代で最も売れたラテン音楽のアルバムのひとつとなった。1987年に“Voy Pa Encima lleno de exitos”のアルバムでトップの地位を確立し、アメリカとプエルトリコで30万枚を売り上げ、その噂は大西洋を横断しスペインに達し、“Desnudate Mujer”の世界的なヒットでBillboad誌が彼をトロピカル/サルサ部門で1987年を代表する歌手として取り上げた。
全ては夢のような話であるが、いつも夢には悪夢が潜んでいるもので、Ruizにとってそれは麻薬とアルコール中毒であった。若い時から麻薬と酒で肝臓を患うという肉体的な問題に加え、1988年6月にクラック(麻薬)の所持で禁固14ヶ月の実刑を受け逮捕されたという法的な問題が、事態を深刻にした。
刑務所の中にいながらも、“En Vivo y a Todo Color”のアルバムは20万枚売れた。その次の“Mas Grande Que Nunca”(1989年)は最も商業的な成功を収めたが、1993年、破天荒な生活により病に倒れ、1993年に他界。全てのプエルトリコ人の心の中に永遠にその存在は刻まれた。1992年に“Mi Libertad”、1993年に“Puerto Rico Soy Tuyo.”、1995年に“Mirandote”が発売され、1996年の“el magnifico Tranquilo”は1997年のビルボードラテンミュージックアワード賞にノミネートされている。
彼の最後の活動は1998年の7月11日、マディソンスクウェアガーデンでのコンサートであった。1998年の8月9日、40歳の若さで麻薬とアルコールにより肝硬変になり、深夜0時前にニュージャージー病院で亡くなった。
FRANKIE RUIZ は、このジャンル、特にSALSA ROMANTICAとして最も知られている感情表現にすばらしい貢献をした。サルサの人気が失われる中その復活を助け、その若さ、容姿、歌唱力で若者達に最も慕われるアイドルの一人になった。